第1章 問題を行動のカタチ(形態)から捉える – 臨床行動分析のABC

物事の捉え方というのはたくさんの方法があります。行動分析学(臨床行動分析)の特徴は、問題を「行動」として捉えていくところにあります。『臨床行動分析のABC』では、問題を「行動のカタチ(形態)」として捉えることはら説明が始まります。

最初はしっくりこない捉え方かもしれませんが、問題を行動として捉えることを繰り返していくことで、少しずつ馴染んでくると思います。

第1章 問題を行動のカタチ(形態)から捉える – 臨床行動分析のABC

この記事のタイトルには書きませんでしたが、『臨床行動分析のABC』の第1章には、「「問題」とは何か?」というサブタイトルがついています。何を問題として捉えるかということが一般的な捉え方とは異なるため、まずは「問題」が何かというところから始める必要があります。

問題をフォーミュレートする

何かの問題解決を頼まれたとき、その問題がどのようなものかを聞くことになります。その内容は、問題を解決したい人(相談者など)が問題をどのように捉えているかというものになります。

例えば、「車が動かない」という問題を解決するとします。この「車が動かない」というのが相談者の問題の捉え方になります。それを聞いた自動車整備士は、いくつかの仮説を想定して、相談者に聞いたり、実際に操作したりすると思います。

「車が動かない」と言っても、エンジンがかからないのか、エンジンはかかるけどシフト(ギア)が動かないのか、Dレンジ(前進するモード)に入れてアクセルを踏んでも進まないのか、などなど、いろいろなパターンがあります。それらすべてを「車が動かない」と呼ぶことができます。

『臨床行動分析のABC』では、「自身の欠如」を使って説明されています。

では「自信」に関する問題をどのように探っていけばいいかを考えてみましょう。それをどのように観察すればいいのでしょうか? マリーが社会的な場面で、回避したり、躊躇したり、あるいは何かをしたりするということは観察できます。もっと観察すれば、より多くの行動を探ることができるでしょう。しかし、実際に「自信の欠如」というものを目にすることは決してできないでしょう。

『臨床行動分析のABC』 p.27

「自信」や「自信の欠如」と問題を定義すると、「なるほど」とわかった気になります。日常会話でも、「自信がなくて~」という表現が使われ、何の違和感もなく会話が進んでいきます。それは、「自信」や「自信の欠如」があたかもそこに存在するかのように扱われているということです。

何を言っているのかよくわからないという人もいると思います。では、こう問われたらどうでしょうか?

自信がないってなんでわかるの?

これに対する答えはいくつも考えられます。「人前で話すことを避けるから」とか、「新しいことに挑戦できないから」とか、「自分の意見を言えないから」とか。

確かに、そういう状態は「自信がない」と言えそうです。でも、ちょっと待ってください。

そのようになっているのはなんで?

こんなことを聞かれたらどう答えるでしょうか? 「自信がないから」。こんな答えが返ってきそうです。

行動分析学(臨床行動分析)では、行動にフォーカスを当てるため、このような説明の循環が起こりません。なぜ説明が循環するかを行動分析学(臨床行動分析)の視点から見ると、複数の行動をまとめて「自信の欠如」と名前を付けているから、ということになります。

『臨床行動分析のABC』にはブーケを使った説明が書かれています。

「自信」ということばは、多くの行動的な出来事を効率よく要約してくれるラベルなのです。それは「ブーケ」ということばと似ています。(中略)ブーケは、花をどんどんと引き抜いていけば、存在しなくなってしまうものです。つまり、ブーケは、それ自体として存在するものではなく、単に私たちが観察できるものを要約するために便利な用語でしかありません。

『臨床行動分析のABC』 p.28

この「ラベル」と呼ばれるものは、心理学で「仮説的構成概念(hypothetical constructs)」と呼ばれるものです。

仮説的構成概念については、ぼんやりと記憶の彼方にあったような、なかったような感じで、行動分析学を学ぶ中で明確に意識するようになった感じなので、僕もちゃんとわかっているわけではありません。

手元にある心理学辞典で調べてみましたが、「仮説的構成概念」ではなく、「仮説構成体」として載っていました。『臨床行動分析のABC』と同じ「hypothetical construct」(こちらは単数形ですが)だったので、同じものだと思います。

心理学的な現象を予測・説明するために、推測される媒介的な機構。

『心理学辞典』(有斐閣) p.118

有斐閣の心理学辞典にはこのように書かれています。「仮説的構成概念(仮説構成体)」は、「仮にこういうものが存在しているとしたら、この現象をうまく説明できる」みたいなものかなと理解しています。間違っているかもしれませんが。

この仮説的構成概念の具体例が、「自信」や「自信の欠如」などになります。確かに、ある現象を説明するときに「自信」や「自信の欠如」という概念を導入すると、説明しやすくなりますよね。このような仮説的構成概念は便利なものであると同時に、行動分析学(臨床行動分析)では複数の行動をまとめたラベルであると捉えます。

行動分析学(臨床行動分析)では、仮説的構成概念を使わず、行動を使って問題をフォーミュレートしていきます。「自信の欠如」」ではなく、それを示す行動を記述していくということです。

外的な行動と内的な行動

一般的に使われる「行動」と、行動分析学(臨床行動分析)で使われる「行動」では、その意味が異なります。ここが重要なところであり、わかりにくくしているところでもあります。

イントロダクションのまとめでも触れましたが、徹底的行動主義」は「徹底して行動しか扱わない」のではなく、「徹底して行動として扱う」ことを意味しています。つまり、思考や感情などの「内的なもの」も行動として扱うということです。

一般的に「行動」として表現される「外的な行動」と、思考や感情といった「内的なもの」とされる「内的な行動」の違いは、本人以外に観察できるかどうかだけです。外的な行動は他の人でも見えるため、本人以外の人にも観察可能です。しかし、内的な行動は他の人には見えないため、観察できるのは本人だけです。

そうであっても、外的な行動」(overt behavior)と「内的な行動」(covert behavior)は両方とも「行動」なのです。

このように一般的な理解とは異なる「行動」をターゲットにして分析をしていくわけですが、そのとき行動を「過剰」と「不足」に分類します。

何が過剰で、何が不足なのか、という問題があり、そこには社会的なことだったり、文化的なことだったり、個人の考え方だったり、いろいろなものが関係してきます。例えば、部屋を掃除にする回数について、1日に3回、1日1回、1週間に1回、1か月に1回、季節ごと、半年に1回、1年に1回のどれが「普通」で、どこから「過剰」で、どこから「不足」なのか。全員が一致する答えはなさそうです。

過剰と不足については、『臨床行動分析のABC』で詳しく説明されているので、実際に読んでみることをオススメします。

最後に

問題をどう捉えるか。それはいろいろな立場や考え方、捉え方などによって異なります。何が正しくて、何が間違っているか、ということではなく、いくつもの捉え方があるということだと思います。すごく長い目で見れば、数十年後とか数百年後とかに、「正しい」ものが出てくるのかもしれませんが、現段階ではいろいろな立場の人たちが「答え」を求めて努力していると思っています。

行動分析学(臨床行動分析)では、行動を中心とした捉え方をしていて、それに基づいた分析や介入をしているわけです。内的なものも行動として捉え、仮説的構成概念を使わずに行動に還元していく捉え方ですね。

このような捉え方に対する疑問や批判もありますが、まずは行動分析学(臨床行動分析)の捉え方で問題を見ていくと、どのように見えるのか、何ができるのか、ということを知ってほしいと思います。