マインドフルネスとは何か? その定義から体験的理解まで

最近、臨床心理学の世界でマインドフルネスという言葉がよく使われています。一般向けの本でもマインドフルネス系のものが出ていたりします。スピリチュアルな感じがしますが、一応心理学という学問の中で語られるものなので、その定義から確認していくことが必要だと思います。

それと同時に、マインドフルネスは体験的な理解がとても重要なものだと思っています。知識的に理解することと、体験的に理解することの両方が必要なのが、マインドフルネスという概念なのではないでしょうか。

認知行動療法系の学会に参加すれば、必ずと言っていいほどマインドフルネスという言葉に出会います。認知行動療法系の人にとっては、マインドフルネスは避けて通れないものになっているのかもしれませんね。

マインドフルネスはかなり抽象的な概念なので、行動分析学的にはちょっとどうなのかなと思えるようなものです。でも、行動分析学(臨床行動分析)を基盤とするACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)では、マインドフルネスが重要なものとして位置づけられています。

その不思議さから、心理学の面白さを実感することできます。僕の記憶が正しければ、ACTのマインドフルネスは、いろいろ突き詰めていったら「マインドフルネス」と呼ばれる概念にたどり着いたという感じだったと思います。

そんなマインドフルネスを、その定義から体験的理解まで紹介していこうと思います。

マインドフルネスの定義とは?

心理学は「定義」というものを大事にする学問なので、定義から見ていく必要があります。ただ、マインドフルネスの定義はなかなか難しい気がします。

『マインドフルネス認知療法-うつを予防するたらしいアプローチ』によると、マインドフルネスは次のように定義されているそうです。

カバットジンの定義によると、「マインドフルネスとは、意図的に、今この瞬間に、価値判断することなく注意を向けること」(p.4)である。(p.25)

『マインドフルネス認知療法』

※Kabat-Zinn J. Wherever you go, there you are: Mindfulness meditation in everyday life. New York: Hyperion, 1994

この定義の引用元の文献は、日本では『マインドフルネスを始めたいあなたへ』として出版されているようです。

別の定義も見てみましょう。

『マインドフルネスそしてACTへ-二十一世紀の自分探しプロジェクト』で、著者の熊野宏昭先生は次のように説明しています。

今ここでの瞬間ごとに、環境との相互関係に基づいて行動する自分のことを、関係フレーム理論では「プロセスとしての自己」といいますが、その自分を少し離れたところから観察する心の持ち方は、マインドフルネスと呼ばれています。(p.60)

『マインドフルネスそしてACTへ』

こちらはマインドフルネスを関係フレーム理論との関係で説明していますね。明確には書かれていませんでしたが、プロセスとしての自己を観察するということなので、文脈としての自己がマインドフルネスと関係しているということなのかもしれません。

手元にある弁証法的行動療法(DBT)の本では、マインドフルネスの定義がきちんと書かれているところを見つけることができませんでした。

ジョン・カバットジンの定義をベースとして、マインドフルネスを見ていこうと思いますが、マインドフルネスの定義はいろいろあるようで、なかなか難しそうです。メタ認知療法のディタッチト・マインドフルネスもありますしね。

ジョン・カバットジンの定義からわかること

ジョン・カバットジンの定義で重要なポイントは、「意図的に」、「今この瞬間に」、「価値判断することなく」、「注意を向けること」という4つだと思います。

「意図的に」というのは、意識的にということでもあり、無意識に注意が向くのではなく、注意を向けようとして注意が向くということを意味しています。つまり、注意のコントロールという要素が含まれていると考えられます。

「今この瞬間に」というのは、未来でも過去でもなく、「今」であるということです。僕たちの意識は勝手に未来や過去に行ってしまうので、そこから戻ってきて「今この瞬間に」留まることがマインドフルネスの重要な要素になります。

「価値判断することなく」というのも重要な要素の1つです。価値判断というのは、良いとか悪いとか、そういうものを指しています。そういう価値判断をしないということがマインドフルネスには必要なのです。

そして、「注意を向けること」。これは「意図的に」、「今この瞬間に」、「価値判断することなく」との関係が重要だと思います。「意図的に注意を向ける」、「今この瞬間に注意を向ける」、「価値判断することなく注意を向ける」ということなのでしょう。

マインドフルネスと言うと、瞑想のイメージを持っている人も多いかもしれませんが、ジョン・カバットジンの定義からは瞑想に限定される必要がないことがわかります。

どんなことをしていていても、マインドフルネスを実現できるということです。食事でも運動でも瞑想でも。

個人的なマインドフルネスの説明

マインドフルネスはわかりにくい概念なので、知識として伝えたい場合には、いろいろな方法で説明する必要があります。そのとき僕が使っているもの1つが

「何も足さず、何も引かず、体験していることを、ただ体験すること」

という表現です。

何も足さず、何も引かず」というのが「価値判断することなく」ということを意味しています。ありのままを体験するということです。

マインドフルネスの体験的理解

マインドフルネスは体験的に理解する必要がある概念だと思っています。いくら言葉で説明しても、体験しなければよくわからないのがマインドフルネスです。百聞は一見に如かずという感じですね。

マインドフルネス瞑想は長く続けたいと思いながら、続けられないものの1つです。それでも、8週間のプログラムを2回やりきったことがあります。

マインドフルネス瞑想の実践している中で2回だけ面白い経験をしました。それは、自分の思考を外の音と同じように体験することができたというものです。

思考を観察する瞑想のときだったので、音を観察するのと同じように思考を観察しようとしていました。ある瞬間、思考が自分から離れて、音と同じような観察対象として体験されました。

そして、それに気づいて、「お、これか!」と思った瞬間に元に戻ってしまいました。

おそらくそれが「思考を思考として体験する」ということだったのではないかと思っています。

これはあくまで個人的な体験なので、それがマインドフルネスなのかどうかはよくわかりません。それと同時に、感情をマインドフルネスに体験するということが、そこには含まれていないような気もしています。

ただ、その体験は、「意図的に」、「今この瞬間に」、「価値判断することなく」、思考に「注意を向ける」体験だったと思います。

マインドフルネスは長く続けることで多くの発見があるのかもしれません。体験的に理解するためには、続ける必要がありますしね。

マインドフルネスの体験的理解から理論的な理解へ

このマインドフルネス瞑想での体験を理論的な理解へ持っていくのも、なかなか面白いものです。僕は行動分析学やACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)に興味があるので、その方向からの理解です。

関係フレーム理論における「自己」

少しマインドフルネスから離れますが、ACTの基礎理論である関係フレーム理論に触れたいと思います。関係フレーム理論における「自己」がわからないと、マインドフルネス瞑想での体験を理論的に説明できないからです。

関係フレーム理論では、自己を3つに分けて説明しています。その3つは、「概念としての自己」、「プロセスとしての自己」、「文脈としての自己」です。

概念としての自己

概念としての自己は、自己概念と同じようなものと理解すればわかりやすいと思います。物語としての自己、概念化された自己と呼ばれることもあります。

『関係フレーム理論(RFT)をまなぶ-言語行動理論・ACT入門』には次のように書かれています。

私たちは、自分自身について語ることを学ぶが、それは、そうすることが私たちの周囲の社会的環境にとって役立つもので、そのために社会的環境がそのような行動を強化したからである。これはまた、幼少のころに私たちは自分についての描写を周囲から与えられて、それが、私たち自身が自分で描く自己とが合わさって、「私は誰か」という物語へと発展することを意味する。私たちは、この物語を、声に出して表現して関係づけることを学ぶが、まもなく声に出さずにそうすることも学ぶ。自己のこの側面は、「物語としての自己」または「概念化された自己」と呼ばれる。(p.152)

『関係フレーム理論(RFT)をまなぶ』

長い引用ですが、重要なポイントは、「「私は誰か」という物語」という部分です。それが概念としての自己ということになります。

プロセスとしての自己

プロセスとしての自己は、今この瞬間に自分が体験していることに関する自己です。

『関係フレーム理論(RFT)をまなぶ-言語行動理論・ACT入門』には次のように書かれています。

「プロセスとしての自己」は、Skinnerの私的出来事の概念と似ていて、私たちはそれをタクトすることを学習できる。それは現在進行形の、観察可能な、自分自身についてのプロセスである。それは、その瞬間に起きている行動で、私たちがそれぞれに自分自身と呼ぶものを作り上げているものの部分―気分、記憶、身体感覚、そして思考―である。それは、常に、「今、ここに」存在する。(p.150)

『関係フレーム理論(RFT)をまなぶ』

タクトは、指し示す機能を持つ言語行動のことです。つまり、プロセスとしての自己は、今この瞬間に体験していることで、それに名前を付けて呼ぶことができるというような感じです。

文脈としての自己

文脈としての自己が一番わかりにくい概念かもしれません。この文脈としての自己は、視点としての自己、場としての自己などと呼ばれることもあります。

『関係フレーム理論(RFT)をまなぶ-言語行動理論・ACT入門』には次のように書かれています。

自己の継続性の視点は、一種独特である。私たちは、この視点を、それ自体として見ることはできない。それは、決して、私たちの観察の対象となることはできない。(中略)結果的に、私たちの独自の視点には、何も含まれていないことになる。それはただ単に、私たちがそこから見て、行為して、日々の生活を送る点というだけのものである。そのような理由から、RFTは、私たちの自己の経験のこの側面を、視点としての自己、または、文脈としての自己、と呼ぶ。これは、私たちが経験することを経験するところの、文脈であり、視点である。(p.149-150)

『関係フレーム理論(RFT)をまなぶ』

行動分析学における自己は、究極的には観察する機能しかないと言われています。それが文脈としての自己です。

その自己は、すべての体験が展開される文脈であり、場であり、それらを見る視点であるということです。文脈としての自己は、「何者にも脅かされない自分」と言えるかもしれません。

マインドフルネスと文脈としての自己

僕がマインドフルネス瞑想で体験したことを、この「文脈としての自己」との関係で説明してみます。

その体験は、「思考を外の音と同じように観察する」という体験でした。それは、おそらく文脈としての自己によって実現されたものだと思われます。

文脈としての自己の立場から観察すれば、思考であっても、皮膚の外側の音であっても、それは体験されるものでしかありません。そこには何の違いもないことになります。

マインドフルネスが「何も足さず、何も引かず、体験していることを、ただ体験すること」なのであれば、「思考」という体験を、ただ体験しているという意味で、マインドフルネスが実現できていたことになるのかもしれません。

視点を変えれば、これは「脱フュージョン」と捉えることもできると思います。

マインドフルネスは、体験していることを体験することでもあるので、それは文脈としての自己で実現されるのか、プロセスとしての自己で実現されるのかという問題もあるのかもしれません。

熊野先生はプロセスとしての自己をマインドフルネスと呼んでいるようですが、概念としての自己とプロセスとしての自己の両方が必要と言えるかもしれません。

ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)では、「マインドフルネスとアクセプタンスのプロセス」の中に、アクセプタンス、脱フュージョン、「今、この瞬間」への柔軟な注意、文脈としての自己を含めています。

『アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)第2版-マインドフルな変化のためのプロセスと実践』には、次のように書かれています。

「プロセスとしての自己」は、「今、この瞬間」への柔軟な注意の一種だともいえるけれど、それがターゲットとするのは持続的な体験である。(p.377)

『アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)第2版』

この辺はきちんと理解できているわけではないので自信がありませんが、「今、この瞬間」への柔軟な注意をプロセスとしての自己と読み替えるのであれば、ACTという視点ではマインドフルネスに文脈としての自己とプロセスとしての自己の両方が関与していると考えられます。

最後に

マインドフルネスというものは、かなり曖昧な概念で、いろいろな視点から説明を加えることができるものなのかもしれません。人によって(研究者によって)、マインドフルネスの定義が異なっている中で、同じ「マインドフルネス」という名前を使って議論されていることが、余計にマインドフルネスをわかりにくくしているところもあるような気もします。

それと同時に、マインドフルネスが瞑想とセットで普及しているところにも問題があると思われます。「マインドフルネス=瞑想」という理解では、本当の意味でマインドフルネスを理解することはできないと思います。

マインドフルネスは、「意図的に、今この瞬間に、価値判断することなく注意を向けること」(ジョン・カバットジンの定義)なので、瞑想である必要はないのでしょう。散歩中でも、運転中でも、料理中でも、マインドフルネスを実現することができるということだと思います。