境界性パーソナリティ障害の治療法として有名な弁証法的行動療法(DBT)。そこには「ボーダーライン患者とセラピーに関して前提とすべきこと」というものがあります。これらは心理職として重要な前提だと感じています。
弁証法的行動療法はマーシャ・M・リネハンによって作られた心理療法です。系譜としては、行動療法系の認知行動療法ということになります。
DBTの説明はまた別の機会にするとして、そのDBTが前提にしているものは、すべての心理職にとってとても重要なものだと思います。
支援対象者が境界性パーソナリティ障害であるかどうかは関係なく、この前提を持っているかどうかで、クライエントをどう見るかが大きく変わってくると思っています。
その前提の1つが、この記事のタイトルにも書いた「セラピーにおいて患者の失敗はありえない」というものです。DBTを知ってから、この前提を忘れたことはありません。
DBTには、「セラピーにおいて患者の失敗はありえない」という前提を含めて、8つの前提があります。どれも重要なものなので、紹介していきたいと思います。
ボーダーライン患者とセラピーに関して前提とすべきこと
『境界性パーソナリティ障害の弁証法的行動療法 DBTによるBPDの治療』という本の第4章「治療の概要―標的、戦略、前提の要約」の中に、第三節として「ボーダーライン患者とセラピーに関して前提とすべきこと」が書かれています。
そこでは「ボーダーライン患者」となっていますが、どのような患者・クライエントであっても、これらの前提は重要だと思っています。
その前提は次の8つです(p.141-144)。
『境界性パーソナリティ障害の弁証法的行動療法』
- 患者はできる限りのベストを尽くしている
- 患者は改善を望んでいる
- 患者は変化に向けて、よりうまく行い、より懸命に取り組み、より動機づけられる必要がある
- 患者の問題はすべて彼ら自身が引き起こしているのではないとしても、彼らはとにかくそれらを解決しなければならない
- 自殺的なボーダーラインの人の現在の人生のあり方は、耐えられないほどのものである
- 患者は関連するすべての状況において新しい行動を学習しなければならない
- セラピーにおいて患者の失敗はありえない
- ボーダーライン患者を治療するセラピストには支援が必要である
ボーダーライン患者に特化したような前提もありますが、これらの前提を持つことで、クライエントに対する見方が大きく変わってくると思います。
DBT関連の研修や講演などでは、DBTの内容やエビデンスなどが中心になっていたりしますが、その前提になっているものを知ることが、本当の意味でDBTを理解する手助けになるような気がします。
それと同時に、心理職としてよりサポーティブな見方をするために、これらの前提が役に立つと確信しています。
8つの前提の中で、「セラピーにおいて患者の失敗はありえない」というのを今回取り上げたのは、あるツイートがきっかけです。
支援がうまくいかないのは誰の責任か?
野口晃菜さんのツイートは、教育という文脈ですが、それは心理の文脈にも通じるところがあると思います。
心理職が支援を行っても改善が見られないとき、それをクライエントの責任にするような表現を聞くことがあります。そう思いたくなるのはわかりますが、プロとして改善することに責任を負っているので、自分の責任と捉えた方がいいと個人的には考えています。
そのベースにあるものが「セラピーにおいて患者の失敗はありえない」というものです。
『境界性パーソナリティ障害の弁証法的行動療法』には、次のように書かれています。
七番目の前提は、DBTの間に患者がドロップアウトしたり、前進しなかったり、あるいは実際に悪化したりした場合は、セラピーかセラピスト、あるいはその両方が失敗したのだ、というものである。(p.144)
『境界性パーソナリティ障害の弁証法的行動療法』
七番目の前提というのは「セラピーにおいて患者の失敗はありえない」という前提のことです。
なぜそうなのかという理由については、そこには詳しく書かれていません。確か、『境界性パーソナリティ障害の弁証法的行動療法』のどこにも書かれていなかった記憶があります。
ここからは僕の推測になりますが、おそらくこの前提は単なる思いつきや、ただ役に立つ考え方だからというようなものではないと思います。
そこの説明をすることで、「支援がうまくいかないのは誰の責任か?」という問いに答えを提供することができます。
なぜ「セラピーにおいて患者の失敗はありえない」のか?
弁証法的行動療法(DBT)は行動療法系の認知行動療法です。さらに言えば、徹底的行動主義に基づいているものだったと記憶しています。もしかしたら、違うかもしれませんが(汗)
徹底的行動主義と言えば、B.F.スキナーの行動分析学が有名ですね。行動療法は基本的に行動理論をベースにしているので、そこを外すことはできません。
さて、その行動分析学では、「環境側の刺激が変化することによって行動が変化する」ということが前提となっています。
三項随伴性と呼ばれる、「先行事象(A)-行動(B)-結果(C)」という枠組みで行動を分析します。そして、先行事象か結果を変えることによって、行動に影響を与えることができます。
クライエントが抱えている問題は、クライエントの「行動」によるものです。なぜなら、徹底的行動主義では生体の行うすべてものが「行動」と定義されるからです。
認知や感情も「行動」として扱うというわけです。
そのため、例えば、「抑うつ気分」という感情も「行動」として扱うことになります。
感情はおそらくレスポンデント反応なので、レスポンデント条件づけを想定した分析になると思います。そして、その感情と関連して生起するいわゆる行動は、オペラント条件づけの枠組みで検討されることになるでしょう。
ある行動が問題となっているとしたら、その行動を制御しているのは環境側であるというわけです。
このような視点で、「セラピーにおいて患者の失敗はありえない」という前提を見直してみると、どうなるでしょうか?
『境界性パーソナリティ障害の弁証法的行動療法』に書かれていた、ドロップアウト、前進しないこと、悪化というものは、クライエントの行動ということになります。
ドロップアウトというのは、セラピーに来るという行動が生起しなくなったということなので、セラピーに来るという行動を維持するような随伴性をセラピストが提供できなかったと考えることができます。
前進しないというのは、変わらないということなので、クライエントの行動に変化がないということを意味します。ということは、クライエントの行動が変化するような環境をセラピーで提供できていないと考えられます。
悪化も同じですね。悪化するような環境がセラピー内であった、あるいは日常生活という環境の影響を相殺できるような環境がセラピー内にはなかったということになります。
支援者がクライエントの環境すべてをコントロールできるわけではありませんが、少なくともその一部に影響を与えることはできます。これは、自分がどう行動するかによって、クライエントに影響を与えることができるということを意味しています。
このような行動分析学的な視点、あるいは徹底的行動主義的な視点から見ると、「セラピーにおいて患者の失敗はありえない」という前提は当然のように思えます。
もしこれがうまく伝わっていないとしたら、それは僕の説明が悪いということですね(笑)