認知療法(認知理論)と行動療法(行動理論)の決定的な違い

認知行動療法(認知行動理論)は、認知療法(認知理論)と行動療法(行動理論)が合流したようなものだと理解しています。それぞれの療法はお互いに技法を組み込み合いながら発展してきている歴史があります。でも、認知理論と行動理論には決定的な違いがあると思っています。

認知行動療法と言ったときに、人によってイメージするものが違うと思います。単に技法の集まりと見る人もいるかもしれません。その理解は正しくありませんが、それはまた別に機会に。

おそらく、認知だけでも不十分で、行動だけでも不十分だったから、認知行動療法という形になっていったのでしょう。

それを行動療法の視点から見れば、「認知」を扱う行動理論が十分に発展していなかったから、認知理論を組み込むしかなかったということなのかもしれません。

認知理論と行動理論は認知行動理論という形でまとめられていますが、そもそもが別の理論なので、そこには違いが存在しています。

しかも、その違いには決定的なものがあると思っています。それは、理論の根幹をなすレベルでの違いなので、本当の意味で認知行動理論は成立しないのかもしれません。

認知療法(認知理論)と行動療法(行動理論)の決定的な違いとはどのようなものなのでしょうか?

行動主義という視点

心理学を勉強していれば、「行動主義」という言葉に出会っていると思います。ワトソンという名前とともに行動主義を覚えている人も多いと思います。

その行動主義は、いくつかに分けることができます。

『新世代の認知行動療法』(p.99-100)によると、ワトソンの行動主義は、方法論的行動主義と呼ばれるそうです。これは「私的出来事を心理学で使う必要はない」(p.100)という立場だそうです。

その中から、記述的行動主義、論理的行動主義、S-R心理学、非S-R心理学、S-S心理学というように分かれていき、認知心理学がその流れから出てきているということのようです。

認知心理学は「全ての構成概念を行動の言葉には還元できない」とする立場になりますが、方法論的行動主義の1つという位置づけとされています。

認知療法はアーロン・ベックが独自に作り上げた心理療法なので、認知心理学との関係はあまり強くないようですが、行動主義という視点から見れば、方法論的行動主義ということになると思います。

一方で、B.F.スキナーの行動主義は徹底的行動主義と呼ばれ、「私的出来事も外顕的行動と同列に扱うことが可能である」(p.100)という立場です。

この流れからACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)が誕生しています。弁証法的行動療法(DBT)もそうですね。

方法論的行動主義と徹底的行動主義の違い

方法論的行動主義と徹底的行動主義の違いについて、『新世代の認知行動療法』には次のように書かれています。

方法論的行動主義と徹底的行動主義は、自分と環境との境界の位置が異なっていると考えてみればよい。つまり、前者では皮膚がその境界となり、「環境」はすべての人に共有される世界になるが、後者では「心の目」の外側が境界になり、ある個人にとっての「環境」にはすべての人に共有される「公的環境」とその人だけが観察可能な「私的環境」の両方が含まれるとするのである。(p.100)

『新世代の認知行動療法』

これは自分あるいは自己というものの範囲がどうなっているかということでもあると思っています。

方法論的行動主義にとって「自己」は皮膚の内側であり、徹底的行動主義にとっては「心の目」ということです。

方法論的行動主義は一般的な感覚に近い理解の仕方ですね。「自分の体は自分である」ということなので、これに異を唱える人はあまり多くないと思います。

一方、徹底的行動主義の見方は少し異質です。環境を公的環境と私的環境の2つに分けています。公的環境は方法論的行動主義で言う環境と同じものを指しますが、私的環境は「その人だけが観察可能」ということなので、「皮膚の内側で起こっていること」が含まれることになるのでしょう。

認知行動療法の枠組み(環境、認知、行動、感情、身体の5要素)で説明するとしたら、感情や身体反応も「環境」であるということをになります。

「心の目」というのは、臨床行動分析やACTなどで「文脈としての自己」などと呼ばれるものです。文脈としての自己は「視点としての自己」とも呼ばれます。

文脈としての自己は、すべての体験が起こる「場としての自己」でもあり、観察する機能しか持ちません。これが「自己」というわけです。

認知療法(認知理論)と行動療法(行動理論)の決定的な違い

認知療法(認知理論)は情報処理理論と呼ばれるものがベースにあります。一方、行動療法(行動理論)は学習理論がその背景となっています。

このような理論的な違いよりも決定的な違いが、「自分」あるいは「自己」をどのように定義するかというところにあると思っています。それは方法論的行動主義と徹底的行動主義の違いになります。

「心の目」の外側を環境として捉える行動療法(行動理論)では、ACTのように、「どのような感情や思考があっても行動することができる」という結論に至ることは理解できると思います。

それは、感情や思考もまた環境であるからです。

一方、認知療法(認知理論)では、感情や思考は「自分」あるいは「自己」に属するものと捉えます。環境ではないので、「自分を変える」という枠組みの中に「感情や思考を変える」というものを入れることになります。

認知を変えることによって感情や行動を変えるという視点は、メタ認知療法にも引き継がれていて、メタ認知療法では認知を変えない代わりにメタ認知を変えることになります。

つまり、重要なのは認知やメタ認知という「自分」あるいは「自己」に属するものということです。

そもそも徹底的行動主義である行動分析学は、環境によって行動が制御されるという発想なので、環境要因を独立変数と捉えています。そのため、認知や感情も行動であるという以前に、それらも環境という独立変数によって制御されている従属変数と見ます。

それは、認知を変えるとしても、その認知を制御している変数を環境側に特定し、それを操作することを目指すということを意味しています。

この環境を「私的環境」まで含めるとしたら、私的出来事を刺激として反応が誘発あるいは生起するということになるのでしょう。それを「文脈としての自己」が観察しているのです。

認知療法(認知理論)と行動療法(行動理論)の違いを超えて

そもそもの科学哲学が異なる認知療法(認知理論)と行動療法(行動理論)なので、そこに違いがあるのは当然のことだと思います。行動分析学的なプラグマティズムの視点から言えば、どちらが正しいかということではなく、それが目的のために役に立つかということの方が重要なのでしょう。

その一方で、科学的にどちらが正しいのかということも重要な視点だと思います。

現段階の理論は両者とも完成形ではないので、補完し合う関係になるのかもしれません。

「認知」を切り取ってみると、認知療法(認知理論)は「認知→行動」のルートを重視していて、行動療法(行動理論)は「環境→認知」のルートを重視しているように思います。行動療法(行動理論)の「認知→行動」はルール支配行動などとの関係で説明されます。

このように見ていくと、理論の階層構造のようなものがあるような気がしてきます。

認知理論は認知に関する理論なので、認知に特化しています。そのため、いわゆる「行動」に関する説明は不得意と言っていいでしょう。

一方で、行動理論は認知を扱い始めてはいますが、その扱い方がかなり複雑で細かいような印象を受けます。

さらに言えば、神経科学は両者の基盤である脳・神経に関する知見を提供してくれます。神経科学的な制約の上で、認知理論や行動理論が展開されているということですね。

このような関係を認知理論と行動理論に当てはめると、行動理論がより基礎的な理論のように見えます。その理論を抽象化すると認知理論として説明が可能になるのかもしれません。

これは、「歩く」のような行動を神経科学的に説明することは可能かもしれないけど、複雑で長いものになり、それを抽象化することによって「歩く」を現実的な説明のレベルにできるということに似ていると思います。

つまり、「右足をあげて~」のような説明です。

認知理論と行動理論はそれぞれの得意不得意で組み合わせるものではなく、もしかしたら認知理論の基盤に行動理論があるというような階層構造をしているのかもしれません。

実際にどうなのかはわかりませんが、認知療法(認知理論)と行動療法(行動理論)の違いを超えていくためには、相互の対話が必要だと思います。そして、それがものすごく面白いところだと思います。

そういう意味でも「オリエンテーション(療法)、団体に囚われない心理臨床研修会&事例検討会」に期待したいものです。

オリエンテーション(療法)、団体に囚われない心理臨床研修会&事例検討会
心理臨床の世界にはいくつもの理論や療法があります。オリエンテーションと呼ばれたりしますね。事例検討などをするとその違いがわかりやすく出ることもあります。そのせいで対立することもあるかもしれません。僕はオリエンテーションが違ったとしても、同じ